気楽に生きたい。

鳥頭のmemo

「推し」という概念めいた信仰対象

所謂盲目的な信仰はしていないはず。何もかもが見えなくなっているわけではない、はず。たぶん。あんまり自信がない。


そもそも自分の好きなものに対してファンでいられた試しがない。すぐに信仰してしまう。そういう気質なのかもしれない。ファンくらいのポップな感じにいつも憧れる。ファンでいられることは幸せだと思うし、才能だと思う。
そういえばだけど、宗教では同担拒否みたいなことは起こらないのだろうか。あの人を信じているのは私だけ、私だけがあの人の教えを守れるんだ、みんなは守れないからいなくなればいいのに。なーんて発想は生まれないんだろうか。偶像になってなければとか、そういうのはあるとしても起こっても不思議じゃない気がするけどないよね。宗教ってそういうことじゃないからかな。人の救いだからかな。拠り所だし。助けてもらえる場所でわざわざ心が荒むようなことはやらないか。
じゃあ、アイドルとかに対する同担拒否ってなんなんだろう。偶像崇拝と何が違うんだろう。彼ら彼女らはある意味神様で、宗教とはなりえないんだろうか。だって好きな人にとっては拠り所であり生活の支えであり救いなんだから。距離が近すぎるのがだめなのかな。奇跡を起こせないからだめなのかな。
でも、想像上の神様以外は実際に生きていた期間があるわけで。生きていたときから信仰対象になっていたのだから同担拒否みたいなのがあってもおかしくないような、気がする。そこに容姿の美醜が加わるとだめなのかな。
こういうのって考えてもまあ当たり前のこと、答えなんてないよ。人それぞれだし。でも私は、ポップに何かを好きになることができないから考える。
例えば大好きな漫画や小説の主人公は、私の支えであり人生だ。ポップに可愛いや好きなんて言っても、それ以上にその生き方を信仰している。どのように生きてどのように死んだか、そんなことが大事で。だからいつも生死の価値観に惹かれる。そんなことあんまり深く考えずにポップに愛してみたかった。ないものねだり。
大まかにいえばみんなファンなんだろうな。信仰してても、なんだかんだファンなんだよ。でもファンにも色々いるからさ。そりゃ盲目的にもなるよね。その人しか見えていないんだもんな。自分のことだからどうしても主観になるけど、私は盲目的ではないと思ってる。よくないとこも見えるはず。でも、それも踏まえて好きなんだよな。そして、そんなところがないから好きなんだよな。いつだって最大評価だもん。悪いかもしれないとこなんて悪いように解釈できないよ。これを広く言えば盲目的というのかもしれない。頭が悪い。
信仰と関連があるのかわからないけれど、独占したくなったらそれはもう独占欲や支配欲だと思っている。私だけが見てればいいなんてそんなのは、欲だ。もしかしたらそういう人は、奇跡を起こした人たちを独占したい権力者みたいなポジションなのかもしれないな。みんなに奇跡なんて起こさなくていい、みんなから崇められるな、私だけに奇跡を起こして崇められろ。そんなとこなのかもしれないな。男女問わず行き過ぎた欲は自分自身を苦しめる。結局、苦しいのは自分なんだよ。だから、ポップに何かを愛せるのはやはり才能だと思う。

 

私の周りは同担拒否ってなんでするの?って人が多数で、よく聞かれる。
同担拒否だって言った覚えがなくても、なんか察してもらってることが多い。察しのいい友人に感謝している。だからこそ、確かに同担拒否ってなんなんだろうって考えることも多々あるけどなんか結局よくわからない。
私は子どもだから、「私の宝箱勝手にあけないでよ!」ってことなんだと思う。もちろんいろんな人がいるから、なんかもっといい表現があると思う。例えばだけど、Twitterのいいねが見られるのも「私の宝箱の中身が知られてる」と思って少し嫌だったりする。もうそれって執着なんだろうね。支配欲、独占欲、執着、そういうのをコントロールするのって難しい。でも、同時にすごいパワーも発揮できるからそれはそれで才能だと思う。ただ、悲しいのがこれに攻撃性が伴うときなだけな気がする。

 

結論なんてないし、答えもない。
一人ひとり他人だから、理解できない部分なんてたくさんある。全てに肯定はできない。だからって、否定もしないでね。ってお話。いちご好きな人もいれば嫌いな人もいて、「そうなんだ~」で終わるところを、「なんでいちご食べられないの!?おいしいのに!信じられない!私はおいしいと思ってるのに!」とかなんとかつめよられても、嫌いは嫌いなんだよ。いつか好きになるかもしれないじゃんね。私はいちごすきです。